ニコル・レーシング・ジャパン株式会社 代表取締役社長 C.H. ニコ・ローレケ
1965年、ドイツバイエルン州でアルピナ社は設立。奇しくもJAIAと同じく50周年を迎えている。BMW公認のチューナーとして始まった会社はレース活動を経て、完成車を手がける自動車メーカーへと変貌を遂げていく。年間の生産台数は手作業の割合が多く約1,700台ととても希少である。約35年前、まだほとんどの日本人が知らないアルピナを日本に紹介し、普及に尽力してきたローレケ氏に、あらためてアルピナについて話を伺う。
C.H. ニコ・ローレケ
1953年生まれ。駐日ドイツ公使の父と共に16歳のときに来日する。1974年から1982年までF2や富士グランチャンピオンレースなどでレーシングドライバーとして活躍。1977年ニコル・レーシング・ジャパンを、そして1982年にアルピナ社の日本総代理店となるニコル・オートモビルズを設立する。今日ではグループ7社(上記の2社のほか、フェラーリ正規ディーラー ニコル・コンペティツィオーネ、ロールス・ロイス・モーターカーズ社 正規販売代理店 ニコル・モーターカーズ、BMW正規ディーラー ニコル・カーズ、ニコル・マーケティング、インシュリティ)の代表を務める。
目指すのは台数や規模ではなく、内容を濃くしていくこと。
加藤 まずはアルピナ50周年おめでとうございます。
ローレケ ありがとうございます。JAIAも50周年なんですよね、おめでとうございます。
加藤 私はモータースポーツ少年でしたから、ローレケさんにはレーシングドライバーとしてのイメージが強かった。ですからカーグラフィックに入って初めて、六本木にあったニコルを訪ねたとき、ローレケさんが出てこられてびっくりしたのを覚えています。そもそも日本に来られたのはレースのためだったんですか?
ローレケ ではないんです。父がドイツ大使館の公使で1969年の秋に連れられて来日しました。4年後に父は中国へ行くことになるのですが、当時は文化革命もあったりで行きたくなかった。私だけ日本に残って、これからどうしようかと悩んでいたときに、レースと出会った。
加藤 日本のレース界に入るのは大変ではなかったですか?
ローレケ 小さなフォーミュラからはじめて、その後、F2に乗って、たまたまシートのあいたグラチャンに乗れるチャンスがきた。もう化け物みたいなマシンで、それで人生が変わりましたね。
加藤 BMW製のエンジンでしたよね。
ローレケ そうM12/7。まだ手元に保管してあります。それがきっかけでBMWモータースポーツとの関係ができて、BMWがいかにモータースポーツに熱心であるかを知り、そしてアルピナへとつながっていきます。すべてはここから始まっているのです。
加藤 ローレケさんの叔父さんはあの有名なフシュケ・フォン・ハンシュタイン(Huschke von Hanstein)氏ですよね。
ドライバーとしても1940年のミッレ・ミリアでBMW 328で優勝したり、1950?60年代のポルシェのレーシングチームの監督としても名高い方で、数年前にジンスハイムの交通技術博物館にいったときに、ハンシュタイン氏のコーナーがありました。もう、すごい家系ですよね。レース界に入るのは偶然ではなく必然だったのではないでしょうか?
ローレケ 叔父の影響は大きかったですね。両親がイタリアに家をもっていて、そこにいつも遊びにきていました。私は両親の言うことをぜんぜん聞かない子どもでしたけど、「大丈夫大丈夫、もう少し大人になればきちんとするから」と彼はいつも私をかばってくれた。
加藤 自分の中に叔父さんの血が流れていると。
ローレケ そんな感覚がありますね、彼ほどいい男ではありませんけど(笑)。
加藤 それでなぜレース界から自動車ビジネスの世界へ移られたのでしょうか?
ローレケ ビジネスをしようと思っていたわけではないんです。1974年当時のレーシングカーはほとんどが英国製で、チームのためにパーツの輸入を手伝ったりしていたら、他のチームからも声がかかるようになった。いつのまにか貿易会社のようになっていて、それで1977年にニコル・レーシング・ジャパンという会社をつくりました。それがビジネスの始まりですね。
加藤 アルピナとはどうやって関係が始まったのですか?
ローレケ きっかけは、日本のお客様にアルピナに興味があるという方がいらっしゃったからなんです。すでにBMWとは関係がありましたから、そのつてでアルピナを紹介してもらって、1979年、日本への輸入第一号車はB7ターボでした。そしてこの年にJAIAメンバーとなりました。
加藤 あ、当時のカーグラフィックの表紙になった、あの黒いモデルですね(※)。
ローレケ そうです、そうです。最初はドイツで試乗して、300馬力のエンジンだったと思いますけど、スポーツカーではなく4ドアなのに、素晴らしい足まわりで、ちょっとしたショックでした。アルピナはスポーツリムジンの元祖だと思いますね。
加藤 そのB7ターボをお借りして、当時谷田部にあったJARI(日本自動車研究所)のテストコースに持ち込んだことがありましたよね。しかし、あいにくの大雨で、ローレケさんの期待するタイムが出なかった。
レーシングドライバーの血が騒いだんでしょうねえ、「そんなはずないっ!」って、自分でテストなさった(笑)。
ローレケ 日本に初めて輸入したクルマでしたし、認めたくなかったんですね(笑)。
まだ現役で走っていたこともありましたし、いまでも覚えていますけど、バンクから出るときにワイパーがスローモーションでしか動いていなくて、水の膜で前がまったく見えない。完全にアクアプレーニングしていて、とにかくぼんやりとグレーに見える部分に向かって走るようにしていた。
加藤 いや、もう。この仕事長くやっていて、タイムが良くなかったことに対してクレームの連絡が入ることはありましたけど、「JARIのコストは負担するからもう一度ちゃんとテストして欲しい!」なんていうブランドはアルピナしかない(笑)。
ローレケ それだけ情熱をもって、本当にアルピナを信頼しています。当時からアルピナにはプレス用に特別なチューンが施されたクルマもありませんでした。お客様のクルマをテストに使わせていただいたくらいで、どんなクルマでも同じ。それは1つの誇りであり信頼でもあります。
加藤 それまでのアルピナと言えば、ETCC(ヨーロピアンツーリングカー選手権)で1973年と1977年にチャンピオンシップを獲得するなどの活躍をしていましたし、レースのイメージが強いんですが。では、この頃はもう完成車メーカーになっていたんですか?
ローレケ レースをしていた頃は、1972年にBMWからの依頼で例の3.0CSLの開発を手がけたり、チューニングパーツの開発などもやっていたのですが、そのうちにいくら良い部品を作っても、きちんと組む人がいなければ良いクルマはできないと気づくわけです。それでレースやチューニングから撤退して完成車を作ることに専念し始めた。1978年、そうしてできた最初の完成車がB6 2.8というモデルでした。
加藤 なるほど。ただ、当時は日本ではまだ認知されていないし、ネームバリューもない。苦労なさったんじゃないですか?
ローレケ どうしてもレースやチューニングのイメージが強くて、コンプリートカーのイメージがない。最初の何年間かは、まずジャーナリストの方々にももうチューナーじゃない、メーカーになったんだと発信し続けていました。この30数年で、ようやくなんとかカタチになったのではないかと思いますね。
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